昨日、スーパーで例によって半ズボンで軽快に買い物をしていたら、
同じく買い物中のご夫婦の奥さんが旦那さんに
「こんな寒いのに短パンはいてる馬鹿な人がいる。」
と、話していたということをううちの奥さんに教えられました。
そんなことくらいで別に腹を立てたりはしないのですが、
失礼ながら残念な人だと思ってしまいました。
人は皆往々にして、自分の経験や、価値観でしかものごとを考えられないものですが、そうであっても
「変わった人がいるね」とか「何だかすごいね」
くらいだったら、何も感じないのですが、
「馬鹿な人がいる」という発言には、これもまた人間が皆持っている
「自分と違うものは、劣ったものと考える」
という、残念な発想によるものと考えざるを得ません。
例えば白人たちは
「肌の色が黒い人アフリカの人たち」
「髪が赤いスラブの人たち」
「唇が大きく厚いアフリカの人たち」
「目が細くつり上がっているアジア人」
などを、その外見の違いから
「自分たちよりも劣った人種」
と、決め付けて
その人権を認めずに差別、支配、搾取、迫害を繰り返してきました。
また、見た目が同じでも、信じている宗教が違えば、
「異教徒」として、何のためらいも無く残酷な仕打ちを行ないました。
そういった過ちを繰り返さないために、私たちは子どもの頃
「みにくいアヒルの子」を読むように促されたのです。
子どもの頃に誰でも一度は読んで、理解して、実践をしたはずなのですが、大人になって油断をしてしまうとアヒルたちと同じことをやりはじめます。
自分と異質なものは、劣ったものであり、何を言ってもかまわない、何をしてもかまわない、という考え方が、
「いじめ」「差別」「虐待」などの根本原因になり得ます。
社会が息苦しくなってきた昨今、金子みすずの
「みんなちがって、みんないい」
という考え方が脚光を浴びていますが、社会の中で満たされていない人は、
ついつい自分と異質な人を認めて受け入れることができずに、
馬鹿にしたり、攻撃したりするものかと思うと、やっぱり悲しい現実を感じます。
その一方で、心にゆとりがあり、見識のある人たちからは、
何度か同じような言葉をかけられた経験があります。それは
「寒いのに半ズボンかよっ!外人みたいでかっこいいなぁ!!」
というものです。
確かに冬場に薄着の外国人はしばしば見かけるのですが、
それを見て覚えている見識の深さと、
みんなと違うことをプラスに捉えることができる心の広さが、
そういわせるものだと思います。
そんな言葉をかけられると、自分がほめられて気持ちいいとかそういった問題ではなく、そういった言葉をかけることができる人がいるんだということで、うれしい気持ちになります。
自分自身も、そうでありたいと思います。
だんだんと冬が近づきましたが、昨日はそれでもプラスの気温です。
冬になってから件のご夫婦に見られたら、なんて言われてしまうのでしょうか・・・